その母親は、いまだディット・バーンの前に立っていた。
その顔には優しい笑顔が浮かんだまま。
その場を一歩も動かずに。
(昔無くしたものを……)
ディット・バーンは盗賊ギルドに入る為に家を出た。
以後一度も実家に戻っていない。
それがギルドの法だからだ。
(もう見ることは無いと思っていたものだ)
ディット・バーンはそう思い、少しの間それを眺めたが、気を落ち着かせていつもの精神状態を取り戻した。
「あんた……あいつの母親か?」
その問いに女性は優しくうなずいた。
「えぇ……私はあの子に会わないといけないのです」
優しい声だ。
(この人が本当にラスト・オブ・キマイラなのか?)
ディット・バーンには信じられなかったが、ブラックウィンドの言ったことに嘘は無かったと信じたい。
少なくとも嘘をつく状況ではなかった。
「会って何をする」
ディット・バーンの両の手には今だミドルソードが握られていている。
しかし、それをこの女性に振るう事はないだろう。
「私を……殺してもらうのです」
ディット・バーンの両手からミドルソードが転げ落ちた。
「なんだと?」
「私を殺させるのです」
もう一度女性はそう答えた。
それが当然の事のように。
「馬鹿な……理解できん……」
それがディット・バーンの精一杯の答えだった。
「それでいいのですよ……優しい盗賊さん」
その答えにすら、優しい……慈愛に満ちた笑顔をのぞかせる。
その時。
「母さん」
ディット・バーンの後ろから声がした。
「大きくなったのね……クレス……」
そこには意志の戻った瞳をしたクレスが立っていた。
ディット・バーンは何か言おうと、一度口を開きかけたが、言葉は不要だと言わんばかりに、落ちたミドルソードを自分の腰鞘に戻して後ろに下がった。
「ブラックウィンド……彼女は」
「あぁ……恐らくクレスにも分かっている」
二人はそう言い合うと、視線を再会を果たした二人に戻した。
レイナはその光景をまともに見ることが出来なかった。
ディット・バーン。
ブラックウィンド。
二人の姿を目にしたとき、二人の最初の会話を聞いたときに、今から何が起こるかを察知してしまったのだ。
「変わらないね、母さんは」
そう言って女性に笑い掛けるクレス。
その笑顔には一点の曇りも無い。
「あなたは変わったわね……背も伸びたし、そろそろ髪も切ったほうが良いんじゃないかしら?」
そう言うと女性はクレスの頭を大事そうに抱え込んだ。
クレスも何一つ抵抗する事無く頭を抱かれる。
暫く無言のときが流れた。
「母さん……ボク、ラスト・オブ・ブレイズを探す旅を始めたんだ」
クレスは女性の胸に顔をうずめながらそう言った。
「そう……」
女性もクレスの頭を撫でてやりながらそう答える。
またも無言の時間が流れる。
ブラックウィンドはその光景を見つめることが出来なかった。
(胸がつまる……)
横ではレイナが口に手を当てながら、瞳からは大粒の涙を滝のように滴らせていた。
その先はクレスが先ほど寄りかかっていた木。
まともに目を当てられないのだ。
ディット・バーンだけがその光景をジッと見ていた。
誰かが見届けなければいけない。
そう心が叫んでいる。
この二人には酷な光景だろう。
だったら……既に親という存在を捨ててしまった自分が見届けるべきだ。
「クレス……良くお聞きなさい。私はあなたに一番初めに出会うラスト・オブ・ブレイズとしてここにいるの」
母の顔が少し悲しそうな笑みになる。
「……分かってる」
そう言うとクレスは母の腰に両手を回す。
この時間が永遠に止まってしまえば良いとでも言うかのように。
「烏さん……なんでこんなに、こんなに辛い現実を……あの子は……!」
レイナにみなまで言う気力は無かった。
それでもブラックウィンドには伝わっただろう。
「クレスにしか……出来ない事なんだ」
それはどんな言葉よりも力強かった。
「貴様達は伏せていろ。……俺が見届ける」
その前ではクレスと母親のやり取りをずっと見ているディット・バーンがいた。
レイナとブラックウィンドに、今から起こることを見るなと言っているのだ。
「……私がこの町に来たのは、この事を見届ける為だったのかもしれない」
そう言うとレイナは今だ涙の流れつづける瞳を擦りながら、ディット・バーンの横に並ぶ。
「クレス……あなたは全てを終わらせなさい。全てのキマイラ……ラスト・オブ・ブレイズ達を眠らせてあげなさい。それはあなたと……あなたがこれから出会う幾多の仲間たちにしかできないこと……。あなたには、それをする義務があるのよ」
母はそう言った。
「うん……」
クレスは今だ母の胸に顔をうずめたまま小さくうなずいた。
「最後に……本当のあなたたちの敵は……今だ存在している過去の魔術師。彼を止めない限りは、ラスト・オブ・ブレイズが本当の意味で安らかになれるときは来ないでしょう。そして、この大陸が安らかになれるときもね」
母はそう言うと、クレスの髪を今一度優しく撫でた。
「ボクが……必ず眠らせてあげるから」
それは母に対する最後の親孝行なのかもしれない。
クレスはそっと、母の腰に回していた手を解いた。
「本当は……母さんと一緒にいたい。ずっとずっと一緒にいたいよ!……でもそれじゃ あ、母さんが眠れないから……ゆっくり出来ないから……」
クレスの留まっていた時間が、今、流れ出そうとしていた。
「私のクレス……あなたは本当に優しい子。みんなを……みんなを眠らせてあげて」
母はそう言うとクレスの額に、優しくクチヅケをした。
「おやすみ……母さん」
時が流れた。
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