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  第10話

 刹那。
 トッポがこの日一番の瞬発力を見せた。
 素早い右足の蹴りで、およそ人間では不可能と思われる距離を一瞬にして詰める。

 「!」

 狙いはクレス。
 クレスはまさかこの男が自分に最初の攻撃を繰り出すとはよもや思っていなかった
 それは油断。
 クレスの心にわずかな戸惑いが残る。
 男が自分を殺しにきているのは明らか。
 なのに、何故剣を抜けない。

 「避けないか!」

 そのディット・バーンの声も一瞬遅い。
 万事休す。
 皆がそう思ったとき、ブラックウィンドは吼えた。

 「ゼロ!」

 それと同時に。
 ブラックウィンドの声と、女魔術師レイナの声が重なる。
 
「輝けるその刃よ!強靭なる矢となり悪しき存在を貫きたまえ!」

 「!」

 女魔術師が放った魔法は、ブラックウィンドの予想と全く違ったものだった。
 (これはレイ・アロー【輝ける矢】!)
 女魔術師レイナが放った魔法は、ブラックウィンドの予想していたスリープ・ミストではなかった。
 レイ・アローとは、魔法の光塵を術者の指先に集中させ、そのまま指を向けた方向に放出する魔術だ。
 魔術としての程度は、初心者が基本の最後に会得するくらいだから人を死に至らしめる程の威力はないのだが、それを相手に向かって確実に当てることが非常に難しいのだ。

 それを目の前の、まだ歳若い女魔術師がやろうとしている。
 しかも、この失敗の許されない状況で、だ。
 (まさか!この状況でだと!)
 ブラックウィンドの驚きをよそに、レイナの放ったレイ・アローは、瞬く間にトッポとの距離を縮める。
 その誤差はほとんどゼロに等しい。
 (どれほどの潜在能力を持っている!)

 レイ・アローの魔術弾を正確に飛ばすことの難しさを、ブラックウィンドは良く知っている。
 彼に縁のある者の十八番だったからだ。
 その人物でさえ、ここまで正確に狙いを定めることは出来ただろうか?
 しかもだ。
 彼女は瞬時にトッポの動く位置と、動くスピードまで計算してレイ・アローを放っている。
 それはクレスにいざトッポの刃が届こうかという瞬間。
 (今日はなんという日だ……)

 まず、クレスと対峙している男。
 そう、ディット・バーンに驚かされた。
 彼の持つ確かな戦闘能力。
 そして、その能力を最大限に生かすためのセンス。
 それはまさに戦闘の鬼と呼べる実力。
 人間であった自分が束になってかかったとしても恐らく接戦にすらなることはないだろう。
 それほどまでにディット・バーンの実力は高い。
 それから半刻もたたないうちに、今日二度目の驚きを味わされた。

 しかも、まだ成人すら迎えていないであろう、年若い女魔術師にだ。
 ブラックウィンドにとってはそれは驚き以外のなんでもない。
 まずは自分の正体を見破った魔術師としての資質。
 そして今しがた見せた、魔術師としての確かな技術。
 このまま魔術師としての成長に曇りがなければ、彼女は歴史に名を残す魔術師になるだろう。
 ただ一人の人間に狙いを定め、その動きまでも正確に捕獲し寸分狂わぬ位置に魔法を射出出来る人間などそうはいない。
 そのただ一人、すなわちトッポは勝利を確信していた。
 自分の刃は間違いなくクレスを貫くだろう。
 だがその自信に僅か遅れてやってきたこの感覚。
 トッポは背筋が凍るような感覚に襲われていた。
 勝利を確信すると同時に、それはあり得ない悪寒がトッポを襲う。
 更にそれと同時に、トッポは目の端に特別な違和感を覚える。

 「なっ!」

 レイナの放ったレイ・アローにトッポが気づいたのだ。
 自分の身体に命中する、ほんの直前で。
 クレスを仕留めようというその瞬間に。
 ディット・バーンも、クレスもそれに気づいていたことだろう。
 事実、トッポの攻撃に自分が絡んでいないディット・バーンはいいとして、クレスは余裕を持ってトッポの攻撃を見逃していた。
 確かに、その突撃には恐怖を感じた。
 その一撃は確実に自分の命を一瞬のうちに消していただろう。
 今まで味わった事のない恐怖と驚き。
 避けることなど出来なかった。
 その死への刃の動きがあまりにも美しい軌道を描いていたから。
 クレスは死に自分を許した。
 死に対して、諦めを抱いてしまったのだ。
 
 だがブラックウィンドの声が聞こえた瞬間、その攻撃はクレスにとってどうでもいいものになったのだ。
 死への恐怖も、死への諦めもクレスにとって意味を持たなくなった。
 ブラックウィンドが自分を救ってくれる。
 クレスには確信があった。
 そして、それを実現する信頼が二人にはあった。
 トッポに魔法が直撃す直前を、確かにクレスは見た。
 元々このトッポという男のことなど、頭に入ってさえもいなかった。
 だが助けることも、声をかける事もしていない。
 何故ならば、ほんの一瞬の隙を見せただけで、確実にどちらか一方の死を確実のものとするからだ。
 ディット・バーンは自分が関心のある者にしか興味を示さない。
 それが自分ではないと、トッポは今の今まで疑いもしなかっただろう。

 「ぐはぁっ!」

 命中。
 その魔術弾は寸分の狂いもなくトッポの胸部に張り付いた。
 これでは暫く起き上がることは出来まい。
 トッポの魔術に対する耐性が低かったならば彼はもうこちらの世界に帰ってくることも出来なくなるはずだ。
 トッポがレイナの魔法に撃たれた、その瞬間。
 残った二人の足元が消えた。
 いや。
 消えたのは、二人の姿。
 透き通った刃と刃の重なり合う、澄んだ響きが広場中に渡る。
 その刃には一点の掠りも曇りもない。
 そう言葉に出さすとも分かるほどの澄んだ響きが広場中に広がる。
 その位置は空中。
 二人ともトッポの体が浮くとともに、その身体を踏み台に宙に上がったのだ。
 お互いが同じ行動を取っていた。
 その結果、二人の刃が空中という未開発の戦場で交わることになった。
 そして、二人同時に着地を決める。

 その直後に何故であろうか、踏み台にされたトッポの身体が最も遅く地面に届いた。
 (すごっ……)
 レイナは額から冷たい何かが流れ落ちるのを感じ取った。
 魔術を使ったための、疲労による汗ではない。
 それは冷たい汗。
 アスタランデ中央に聳える中央山脈の雪解けによる湧き水よりも、その冷や汗は恐らくレイナにとって冷たく感じただろう。

 クレス・ロックスター。
 ディット・バーン。
 この二人の戦士の見せた一瞬のきらめきに心底恐怖を覚えたのだ。

 まずトッポに届いたの、近くにいたクレス。
 そのままトッポの身体を蹴り下ろして、空中に浮く。
 その次の瞬間落ちてくるトッポの身体を蹴り上げ、その体に乗って宙に浮くディット・バーン。
 その結果トッポの体が一番最後に降りたのだ。
 クレスからしてみれば、トッポに魔法が直撃した瞬間に、一気に距離を詰めてきたディット・バーンを交わすためにとった行動。
 ディット・バーンは逆に、宙に逃げたクレスを捕らえようとした行動。
 そのいずれも洗練された動き。

 「むぅ……やはりあの男。あの武器といい……やはりそうか」

 その時レイナの肩越しから強張ったブラックウィンドの声が聞こえた。

 「知ってるの?」

 レイナが聞く。

 「あの男……。盗賊ギルドの刑執行人……。常識を逸した盗賊ギルドの頭領を裁く人物だ。盗賊ギルド界を王家に例えて考えるならば、彼ら刑執行人というのは王親衛隊長ほどの地位を持つ」

 その言葉にレイナは自分の耳を疑った。
 盗賊ギルド。
 いまや国や地方自治体を除いては、一番力を持っている団体が、この盗賊ギルドなのである。
 魔術師ギルドはどちらかといえば、暗の組織。
 だがトレジャーハンターとしての地位を確立した盗賊ギルドは、灯の組織。
 一般人からは魔術師ギルドの人間の方が好まれて入るが、要人からは逆に盗賊ギルドの人間の方に理解がある。
 盗賊ギルドの幹部クラスになれば、緊急時には王宮から使者が来て、実王の相談さえも受けたりするのだ。
 その中でも、今目の前で線の細い青年と熱い戦いを繰り広げているこの男は、かなりの上位クラスの地位の持ち主という事になるのだ。

 「この戦い、クレスに分が悪すぎる」

 クレスというのは、その盗賊ギルドの刑執行人と対峙している青年のことだろう。
 (五分じゃないの……?)
 レイナの目にはそう映った。
 確かにレイナは魔術師としては桁外れの戦闘能力を持つ。
 下手な戦士クラスならば彼女に勝つのは難しいだろう。
 その彼女から見たら、別に力関係が五分の戦士同士の決闘に見える。
 だが、実力伯仲かと思われる二人には決定的な違いがあることをブラックウィンドは見抜いていた。
 実際、戦況のほうはディット・バーンの方に流れが傾いているのだ。

 「なんでこんな大勢の人を殺したんだ!」

 「それで食ってるからだ」

 同じやり取りが何回ほど繰り返されただろうか。
 そのやり取りが交わされる度に、流れが徐々にではあるが、ディット・バーンのほうへ傾いていた。

 「違う!僕が聞きたいのはそんな理由じゃない!」

 怒りに任せて、クレスは力いっぱいの一撃をディット・バーンに叩き込もうとする。
 だが、その攻撃のひとつひとつがディット・バーンにははじめから予測できていた。

 「もっと腰を入れろ。そんな腰のない一撃が俺に届くと思うな」

 ディット・バーンはクレスの攻撃をやすやすとかわす。

 「馬鹿にしやがって……!」

 クレスは余裕綽々のディット・バーンの態度に腹を立て、更に俊敏な突きを次々と繰り出していく。

 「腰の入ってない剣に意味は無い。貴様はその剣で俺に何を伝えようという。俺の何を正そうという」

 その言葉はクレスに衝撃を与えた。
 自分が今まで振るってきた剣。
 誰の何を正そうとしているのか?
 それはただの保身の剣。
 自分が目の前にいる盗賊に伝えたかったものは何だったのだろう。
 クレスの剣が、地面を貫く。

 「僕は……!僕は、君に何を伝えたいかなんて分からない……。もしかすると、ただ君の心に善を見つけられずに、僕は怯えていただけなのだろうか?」

 ディット・バーンは自分の行動を恥じた。
 自分のしたことがこのハーフエルフの剣を狂わせるかも知れない。
 目の前のハーフエルフが、若き頃の自分を見ているようで、心が躍ったのが事実。
 独特の言い回しや、価値観があまりにも自分と違っており興味をもったのも事実。
 だが、以前未熟な自分を育ててくれたギルドの人間には自分はなれない。
 いっぱしの剣士に育てることが出来ないなら、口を出すべきではなかった。
 ディット・バーンはクレスにかける言葉を見つけられない。

 「動かなくなったね」

 ブラックウィンドも二人の異変に気づく。
 だが、更にこの場には異変が。
 二人の剣士と盗賊を遠目から見ていたレイナだが、ひとつ気になるものを見つけた。
 (あら?)
 それは、レイナから向かってちょうど、ディット・バーンとクレスの対峙している更にその奥の方にある。
 何かが光ったように見えたのだ。

 「烏さん……!何か光ったの!」

 小声でブラックウィンドに異変を告げる。
 ブラックウィンドは黙ってレイナの指の指すほうに神経を集中させる。
 鳥目だから見ることは出来ないのだが、精神の波動というものを感じようとしているのだ。
その瞬間、レイナは彼の言葉を思い出した。

 「あ、あぁ……少し林になったところに昔の領主の家の跡があるけど……闘いだって?あんなとこで?」

 レイナは素早く彼の姿を捜す。
 彼はレイナとブラックウィンドのほうを見上げながら、地面にへたりこんでいた。
 当然だろう。
 こんな凄まじい出来事が連続で起こっているのだ。
 普段平和な世界で過ごしていた彼には、刺激が強すぎたのかもしれない。

 「ねぇ、君!ここが領主の家の跡なのよね?さっき、やけに驚いていたわよね?ここに何があるの?」

 その言葉に彼は一瞬固まったが、すぐに動きを取り戻した。
 彼の表情には明らかな焦りの色が浮かんでいる。
 彼は見ていた。
 ラスト・オブ・ブレイズの影響で人が夜中に出歩かなくなった近頃。
 その存在に気づいていたのは、彼とその一味だけだったかも知れない。

  「やばいよ!ここは!ここは……!」

 明かに彼は動揺を見せる。
 (何があるって言うのよ!)
 レイナは焦れていた。
 しかし……。

 「あ、あぁぁ!」

 彼の目に怯えた表情が浮かぶ。
 その顔は真の恐怖を物語っている。

 「で……出た……」