アスタランデ大陸の南東に位置する街道に、アビエンヌ街道という所がある。
山々の頂に、白く美しい雪という名の傘が被されるこの秋の終わり口の時期には、あまり人通りは多いものではないが。
それでも、刺すような寒さのなくなる春先から秋の終わりにかけては、夜中を除いては人の姿を見ない時は恐らくなかっただろう。
季節は秋の終わり。
本来ならばここは、辺境の村々までくまなく売り歩く商人達や、大陸の中でも最も美しく最も品格があることで知られる、イーリス女王国の王都サイドイーリスを訪れる人々で溢れるはずだった。
アビエンヌ街道は、イーリスにおいて最も古く伝統のある街道であり、女王国イーリスとフィアン聖王国を結ぶ唯一の大規模な街道としても知られていた。
しかし、究極合成魔獣ベレイロ・キマイラ=ラスト・オブ・ブレイズ。
その復活が大陸的に公になった今、国から国を旅するものはおろか、自分の住んでいる街や村から出ようとする者さえも激減していた。
確かに過去の侵略戦争においては、このアスタランデ大陸を侵略から救った偉大なる、崇拝されるべき存在のキマイラ。
しかしその存在が、今まで続いているレッドッバーンと大陸同盟との戦乱を生んだきっかけになったのは事実。
それだけではない。
そのキマイラは、戦乱が勃発した直後に大陸中の全ての国に大きな破壊をもたらしてもいる。
その傷痕は五百年たった今でも、各地に微少ではあるが残されているらしい。
そのラスト・オブ・キマイラが復活した。
この地域ではまだ確認されてはいないものの、人々は自分の街や村から出ることを恐れているのである。
街道を通る人がいなくなるのも致し方なかった。
そんな中街道の中ほどにある休憩場に、年の頃二十歳に届くか届かないかといった線の細い青年が座ってい身体を休めている。
大きな旅用のマントで身体を覆い、何が入っているのか自分の身体と大して変わらないほどの大きさの皮袋を横に携えていた。
旅人であろうか。
青年はその細い身体に見事に釣り合った、整った顔を覆っていたスカーフを外して、その澄んだ瞳を曇りかかった薄暗い空に向けた。
季節は秋の終わり。
青年の見つめる先にあるものは、果たして一体何なのだろうか。
その青年の周りを、一際強い風が吹いた。
青年はその風に何の喜びも見いだせなかったようだ。
「あまりいい風じゃないな」
青年はその風を受けてそうつぶやいた。
「イーリスで何かが起こっているというのは、どうやら本当のことのようだね」
青年は、自分の肩に止まっている鳥に声をかけた。
それは漆黒の躰と翼を持っていた。
すなわち烏であった。
「うむ。去年の今ごろは、ここは今年最後の商売とばかりに、せかせかと足を急がせる商人の集団を良く見かけたものだが……クレスは憶えてないか?」
驚くべきことに。
その烏は人間の言葉を語った。
クレスと呼ばれた青年は頷きを返しながら、その烏に言葉を返す。
「勿論憶えているよブラックウィンド。にしてもこれだけ風が変な感じなのも、やっぱりラスト・オブ・ブレイズの影響なのかな?」
ブラックウィンド。
それがこの烏に与えられた名だった。
クレスとブラックウィンドが出会ったのは、今から八年前までさかのぼる。
ブラックウィンドはふとその時のことを思い返していた。
当時十二歳だったクレスが、両親を戦で亡くし一人旅をしていた時のこと。
道に迷い森に入ってしまい、魔物の群れを目の前にして、ただ何もせずに立ち尽くすクレスの前に叱り声を上げながらブラックウィンドが降りてきた時のことだ。
「バカやろう!何をしている!」
魔物に囲まれて、微動だにしないクレスを見て、ブラックウィンドはつい人間の言葉を投げかける。
森で烏として生きている中で、自然に使用しないようにしていた言語。
もし人間の言葉を発しているところを聞かれ、姿を見られてしまったら、好奇に駆られた人間が自分を捕まえようとする可能性がある。
それだけではなく、魔物として認識されたらそれこそ殺されてしまう恐れもあった。
そのため封印していた言語。それを同じ人間が魔物に囲まれているのを見た時、無意識のうちに使用していた。
「……僕は別に何もしてないよ」
「魔物に囲まれてるんだぞ!逃げるなり、その腰に差した剣で戦うなりしないか!」
その少年は、ブラックウィンドが人間の言葉を発しても驚く事はしなかった。
いや、実際驚いたとしても、それを見せなかった。
「彼らは僕を食べようとしているんじゃないよ。ただ見慣れないヤツがいるから、怯えて僕をこの森から追い出そうとしているんだ」
その言葉にブラックウィンドは暫く言葉をなくした。
それと同時に、自分が封印していたはずの、人間の言葉を使ってしまったことにも気づく。
「僕のこの剣は、罪もない魔物を虐殺するためにあるものじゃない。人に害を及ぼす邪悪な魔物や、何もわかっていない人間達を裁くために存在するんだ。だからこの森の魔物達相手にこの剣は使えないよ。彼らは僕を認めてくれている」
そう言ったクレスの表情に悲しげなものが混ざっていることを、ブラックウィンドは見逃さなかった。
「ここの魔物たちは罪はないよ。密猟目的で森に入ってきた人間を襲うことはあっても、道に迷った愚かな人間達を襲うことはないみたいだし」
クレスは、魔物に背を向けてブラックウィンドに向き直った。
「君は偉いね。烏なのに人間の言葉が分かるんだ?」
ブラックウィンドを見つめるその瞳は澄んだコバルトブルーのようだった。
この子の様な人間ばかりなら、この姿であっても人間界で生きていけるのかも知れないな。
「俺は烏ではない。もっとも今は烏の姿になってはいるがな」
ブラックウィンドはそう言って、クレスの肩に止まった。
「お前はいい瞳をしている。その将来もそのまた将来も変えられる瞳だ。あぁ、烏ではないといった意味だがな、俺はこう見えても人間なんだ。昔へまをしてな。ある魔術師にこんな姿に変えられてしまってはいるが」
二人を囲んでいたはずの魔物たちはもう既に姿を隠していた。
クレスを無害と認識したためであろう。
「ふぅん。僕はクレス・ロックスター。クレスっていうんだ。いい風が吹いている場所を探して旅してる」
「俺には名はない。人間であったときの名は既に捨てたからな。これは森の近くに住む狩人がつけてくれた名だが、ブラックウィンドとでも呼んでくれればいい」
自分が近くの村の狩人、これはブラックウィンドが人間でいた頃から親交があったのだが、その彼がブラックウィンドと話をする時に、人間の時の名前を使えば、周りにいる人間に聞かれた時にブラックウィンドの正体がわかってしまう恐れがあったため、便宜上付けてくれた名前だった。
その名をブラックウィンドはクレスに教えた。
その時からだった。二人は時を共に過ごすようになったのは。
どちらから一緒に行こうと誘ったわけでもなく。
ただ、そうする事が当たり前のように。
「ねぇブラックウィンド。僕の話聞いてたかい?」
ブラックウィンドはふとその時のことを思い返していた。
「あ、あぁ。そうだな。やはりラスト・オブ・ブレイズが関わっていると思ったほうが良いだろう。そうでもなければ、あれだけこのアビエンヌ街道を愛していた近くの住民達が、ここまで荒れ果てた街道を黙ってみているはずがないからな」
ブラックウィンドはそう言うと、休憩場の中まで侵入してきているあらゆる雑草に目をやりながら、まだ人間であった頃を思い出した。
まだ二十そこそこの頃だっただろうか。
不用意に投げ捨てた煙草の吸殻が、近くを通りかかった近くの村の住民に見つかったのだ。
その後はもう大変だった。
その村まで連れていかれ、村長の家でおよそ二時間ほども説教をされる羽目になったのだ。
それからブラックウィンドは、この街道でいかなるゴミも捨ててはいない。
もうあんな思いはしたくない。
説教のことである。
「ラスト・オブ・ブレイズかぁ……。強いんだろうね」
クレスはしみじみと言った。
その言葉は、怖いといった感情は微塵も感じられぬほど、穏やかなものだった。
「一体ですら強力なものが、二百二十二体もいるのだからな。恐ろしいよ。それだけ強力な合成魔獣を二百二十二体も作った先人達が」
ブラックウィンドはそう言うとクレスの方からテーブルの上に降り立った。
この休憩所には石で作られたテーブルまでもが備え付けられているのだ。
「さてクレス。お前はどうするんだ?やはり確認しに行くのか?」
ブラックウィンドは、クレスのほうを見ないままそう尋ねた。
やや沈黙の後。
「行くよ」
クレスの答え。
「ラスト・オブ・ブレイズが悪い魔物なら、一度見てみる価値はあるだろうから」
クレスの瞳は輝いていた。
「クレス。もし今、俺達が向かっている場所にいるラスト・オブ・ブレイズが、お前の言うところで邪悪な魔物ではなかった場合……どうするんだ?やはり剣を抜かないのか?」
ブラックウィンドはクレスの肩に戻ってそう尋ねた。
やはり少しの沈黙があった。
クレスは決して魔物を討伐することに喜びを見出しているわけではない。
彼は魔物たちを、『人間のエゴによって、そうならざるをえなかった動物達』であると言っている。
つまりクレスにとっては、そこら中を自由に飛びまわっている小動物と、森に入ってきた人間を食らう魔物達でさえも根本的には何ら変わらないのである。
「それは、その時考えれば良いんじゃない?」
クレスはそう言うと座っていた、石椅子から立ち上がった。
「もう休憩は良いだろう?そろそろ行こうよ」
「あぁ、そうだな。だがクレス、もう一度地図を良く確認してからにしよう。俺達が出会ったときもそうだったが、お前は道に迷う癖を持っているからな」
そう言ってブラックウィンドは、もう一度クレスの肩から、石で作られたテーブルの上へと、場所を移した。
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