トップページ > アスタランデサガ > 序章-2
  序章-2

 ホワイトバーンの宮廷魔術師を勤めていたキール・マッケンシーは、机に向かって何かの書物を書き写している。
 その背中からは、彼が非常に高い集中力でその書物の書き写しをしている事がよく見て取れた。
 彼にとってはそれほどまでに重要な書物なのだろう。
 彼は今、女王国イーリスのなかでも最も寂れていると言われる、マイスンの地方に宅を据えていた。

 「あなたは……。ホワイトバーンから追放の目にあったとお聞きしましたが」

 そのキール・マッケンシーは、驚いた表情を隠そうともせずに、戸口に気配を隠し静かに立っている初老の男に声をかけた。
 しかしキールの身体は依然として机に向かっており、その手には依然羽つきの筆が握られていた。
 普通の人間ではもちろん、野生の動物でさえも感じることが出来ないくらいの極少量の気配だけで人の存在を感じ、さらにそれが誰であるかさえもわかったのだ。
 それは全て、キールのその類い希な集中力によるもの。
 世界一般に普通種と呼ばれるほど平凡な能力しか有さない種族である人間において、ここまで集中力を維持できる人間など、両の手の指の数ほどもいないだろう。
 類い希な時魔術の使い手であるキールでなければ、その存在にすら気が付かなかったはずだ。

 「もうこんな片田舎にまで、その知らせが届いておるのか」

 「えぇ。侵略戦線で大陸を救った宮廷魔術師が追放とあっては、どうしてもすぐに噂は広がってきますよ」

 キールは文字を書く手を緩めてそう言った。

 「ここに来たと言う事は、私に何か伝えることがあるのではないですか?さぁ、そんな所に立っていないで、そちらのイスにおかけになってください」

 キールはそう言いながら羽根筆を机の中にしまい、椅子から立ち上がった。

 「察しが良いな。さすがはホワイトバーンにキールありと謳われた男だ。前王がもっとも信頼していたのもうなずける。いや、現王もそなたを一番信頼していたな」

 初老の男は手近にあった樫の木で造られた椅子に腰をかけながらそう言った。
 その初老の男の言葉に、ついキールは苦笑いを漏らしてしまう。

 「とはいえ、その地位を奪ったのはわしであったがな。お主にはすまぬ事をした」

 「お気になさらずに。あなたほど聡明な方なら、私がすでに識王がいなくなった王城での仕事に魅力を感じていなかったのを見て取れたでしょう。私はそう思ったから、宮廷魔術師の任をとかれた時に何も反論しなかったのです。現王をきちんと教育して差し上げたかったのは否定しませんが……。さて何か飲まれますか?とは言っても、我が家にはろくなものは置いていませんけど……」

 キールは机を離れ、戸棚の戸をあけた。

 「キールよ。わしは聡明なのではない。ただずる賢いだけだ。わしの瞳にはお主のほうがよっぽど聡明だと映っておる。わしがこうやってお主に会いに来たのは、お主の聡明さを確信していたからじゃよ」

 「買いかぶりすぎですよ。今麦酒<エール>を準備しますから」

 「キールよ……。わしがこうやって人に会うのは最後になるであろう」

 キールの動きがほんの一瞬だけ止まる。
 それは恐らく予測していた答えであったのだろうか。
 その身体はすぐに動きを取り戻す。
 
 「わしは人間には失望した。わしはただ、わしの師匠の愛したこの大陸を守りたかったが為に王にキマイラを造って差し上げたのだ。彼はまだ若かったが、将来性は十分にあったし識王の息子であったからな。間違いを犯すことはないと、わしは十分でない知識と無知な自分の考えに、たかを括っていたのじゃろう」

 「彼の実母は妾でしたからね。母を侮辱した者達を見返してやりたいと思ったのでしょう。そうならないように前王はルイジに接していたはずですが。それをルイジに分かるだけの、感じとるだけの人間的器が足りなかったのでしょう」

 キールは戸棚の中から小ジョッキを二つ出してテーブルの上においた。

 「人というものはかくも愚かなもの。お主とわしとてまた然りじゃ。わしらのように常人からして別量の知識を持っている人間であっても、人である以上間違いを犯し続けているのじゃからな。ルイジの行動を許せなかったわしもまた愚かなのじゃ。本来ならばわしがルイジを導かなければならなかったのじゃろうが……今更考えを変えられるほど柔軟な頭など持ってはおらんわ」

 キールは麦酒を二つのジョッキに注ぎながら、無言で次の言葉を促した。

 「今から五百年後。またキマイラが復活する。気づいておるじゃろう?」

 キールは黙って頷いた。

 「そして、これがわしのかけた禁手法によるものだということも」

 「えぇ。そのために私はここで、キマイラに対する知識を取り入れてきたのですから」

 そう言うとキールは今書き写していた書物の表紙を初老の男に見せた。
 そこには古代言語が記されている。

 「理由は聞かないのか?」

 「旗から見れば、個人的な復習と見られるはずです。故に個人的な復讐といえばそれまででしょうけど……あなたはそこまで浅はかではないはずです。そうですね、これは私の勝手な解釈ですが。人類に対しての警告なのではないんですか?今あるものに満足できずに、他の者の物まで得ようとする、傲慢で自分勝手な者たちに対しての。きっとこのレッドバーンの引き起こした戦乱は時代を越えて、長い間終わることはないでしょうから」

 キールは手に持っていた書物をパラパラとめくりながらそう話す。
 書物の間にはいくつもの付箋が挟んである。
 そのひとつひとつがキマイラに関するものなのだろうか。

 「まぁ好きに解釈すると良い。わしにはそんな大義名分などありはせん」

 「えぇ。好きに解釈します。きっとあなたは万が一に備えて自分の作ったキマイラ達に呪いをかけていたのでしょう?ルイジ王が大陸をキマイラを用いて支配しようとしたときのために。自分がホワイトバーン……いえ、今はレッドバーンですか?その国から追放された時にキマイラが姿を消すという」

 初老の男は頷きもせず、キールに言葉を返す。

 「わしが最初からルイジに対して疑いを持っていたと?」

 その言葉にはトゲがある。

 「そういうわけではないんでしょうが……先ほどあなたが仰った通り、識王の息子であったという事で信用していたというのは事実だと思います。ですが、万が一に備えて呪法を準備するくらいの事はなさいませんか?」

 少しの沈黙の後、男はキールに尋ねる。

 「もしお主なら仕掛けるか?」

 キールは何の躊躇も無く頷いた。

 「私は識王の時代でさえ常に呪法を準備していました。それが我々のように魔術師と呼ばれる知識職につく人間の義務ではありませんか?」

 そのキールの言葉に満足そうに頷く。

 「では、何故今更お主に会いに来たかは分かるかな?それだけの事を伝えるためだけにこんな片田舎に来るほどわしに体力はないぞ?」

 「これも憶測なのですが……。私が調べたある書物では五百年後に"何らかの"区切りがつくと書かれています。あなたは私よりも先にそれを知っていたのでしょう。それでその時のためにキマイラに封印を掛け、五百年後に眠りからとけるよう命令した」

 キールがそう言うと、初老の男はチラリと、先ほどキールの向かっていた机のほうを一瞥した。
 そこには、正に山ほどというに値するだけの数の書物がある。

 「あれだけの資料を集めるのは苦労したであろう?」

 「まぁ……。この七年間世界を旅してきましたから。それほど苦労したというほどでもありませんよ。まぁ、備蓄していた財産はほとんど使い果たしましたがね」

 キールは頭をボリボリ掻きながらそう言った。

 「うむ。それで何がわかった?」

 「とりあえずは五百年後に起こる何か。そして……」

 初老の男の目が細まった。

 「その時、時代を討伐する組織が出来るであろうこと。その中に幾人かの力ある勇者とでもいいましょうか……現れること。まぁ、勇者に関しては私のオリジナルの考えですがね。勇者という響きには憧れてまして……。まさに前ホワイトバーン王が私にとっては勇者だったと思います」

 キールはそう言うと柔らかい微笑みを浮かべながらエール酒を口に含んだ。

 「確かに勇者と呼ばれる者が出てくるだろう……。時代において何かが起こるときには大地神から選ばれた勇者が現れるのはこの星の宿命。……お主にそれが分かっているならば問題はない。お前さんなら分かるとは確信していたが、もしものために出てきた意味はなかったようじゃな」

 初老の男はエール酒を一気にあおって、席を立った。

 「あなたがこうやって尋ねてくださるまでは、言ったとおり、全てがそれも仮定論だったのですよ。たった今それも確定論に進歩しましたがね。それだけでも、ここまで来て下さった意味があるはずです」

 「そうじゃの。じゃがわしはもう行く。もともと強くなかった身体を騙し騙し魔法で生き長らえさせておいたのじゃ。魔法を使うことを止めた今、わしはすぐにでも息絶えてしまうじゃろう。そうなる前に師匠の墓に挨拶をせねばならん」

 「えぇ。行ってあげたほうが、権威ユング師も喜ばれると思いますよ」

 初老の男の足が秒針における一刻み分だけ止まって、また扉の方に向かった。

 「……気づいておったか」

 「えぇ。キマイラに対してあれだけの知識がある人は、歴史を紐解いてもそういませんから。もっとも気づいたのはここ一年の間ですがね。……私は私の子孫を通して、五百年間キマイラに対する知識を守り抜いてみます。その時まで子孫が続いているかは分かりませんけどね。そして、歴史を……世界を救う勇者達に伝える役割を務めさせてもらいますよ。それくらいしても運命の女神は許されるでしょう?」

 キールは座ったまま微笑んだ。

 「お主の血を引いた者以外には、運命の女神もそんな事は任せられんじゃろう。ではさらばだ、稀代の魔術師にして聡明なる時学者キール・マッケンシーよ」

 そう言って初老の男は姿を消した。

 「さらば……いえ、違いますね。また遠い将来、僕の子孫とお会いすることになるでしょう。キマイラ学の権威ユング・イス・ベレイロの実弟であり、もっとも優秀だった愛弟子コレル・イス・ベレイロ老子。あなたの瞳の輝きはまだ死んでいない。何か大きな企みがないと齢百四十歳を数える老人に宿る輝きではないでしょう。それがどんな企みかは……到底知り得ませんがね。正しい企みなら、大陸がきっとあなたを導いてくださるでしょう。それがもしも悪い企みだとしたら……やはり大陸がそれを許さないでしょう。例えあなたが後五百年生き続けようとも……」

 まるでそこにベレイロが留まっているかのように、キールはその誰の姿も見い出せない戸口に向かって、そうつぶやいた。